空が錆びついていた。どこを見ても赤茶色の雲に覆われていた。 あれがいつもの空だ。雲の向こう側の青い空間を見れなくなって、もうかなり経つ。 ソフィアは気味の悪い空から目をそらすように下を見た。
「ワン!」
足元でシードがぐるぐる回っている。 シードは何がそんなに楽しいのか、あちこち走り回っていた。犬じゃなくてウサギみたいだった。ソフィアはシードを見て言った。
「今日やることは……」
ゴミの埋立地でリサイクル紙とプラスチックを探すことだった。いくらあっても足りないのが紙だった。ブラスチック容器は表面の汚染度が低く、収納に欠 かせない物だった。 ただ、ソフィアはブラスチックが好きではなかっ た。分解されにくいので環境に悪影響を及ぼすからだ。
「紙とプラスチック……」
話している途中で、ソフィアは慌てて首を横に振った。
「それはダメだよ、シード。」
シードは地面に半分埋まっているヨーグルトカップをくわえようとしていた。容器に使えそうな形でもなかった上に、内部は汚れていた。
「探すのは私がやるから、あなたはついてくるだけでいいの。」
「ワン!」
シードは力強くうなずき、気分よさそうにハアハアと呼吸した。 ソフィアはシードと並んで歩きながらつぶやいた。
「キャンプの生活に余裕ができたね。こうやって物を探しに来れるなんて。」
前は紙が足りなくても我慢しなくてはならないほと、余裕がなかった。プラスチック容器も同じだ。水を含め、容器に入れるもの自体がなかったのだから。イーデンが紙とプラスチック容器が必要だと言った時、ソフィアは一人で探しに行くと言った。 イーデンは保健所の時のように一緒に行こうとした。しかしソフィアはイーデンの提案をすぐに断った。ジョイの側にシードだけを残しておくのが不安だったからだ。イーデンは、シードは賢いから問題ないと言っていたが、ソフィアはそう思わなかった。 いくら賢くても、犬は犬だ。 大切な娘を何時間も犬に任せたくはなかった。保健所に行った時も、キャンプにジョイとシードだけを残 して行くのが不安だった。結局、ソフィアはシードと一緒に探索することで妥協した。 ソフィアは頼りないシードを見つめた。
「遊びに来たんじゃないから、あまりはしゃがないで、シード」
「ワン!」
シードはわかったと言わんばかりに力強く答えた。
「賢そうには見えるね。」
舌を半分出してジーっと見つめているシードの口角は少し上がっていた。ソフィアは思わず笑顔になった。
「ワン! ワンワン!」
ゴミの埋立地に近づくにつれ、シードが急かす頻度が高くなった。シードはソフィアより何歩か前を歩い た。まるでソフィアよりシードの方が急いでいるようだった。
「あともう少しだから急かさないで。なんで私よりあなたが急いでいるの?」
「ワンワン!」
シードは反抗するかのように吠えた。まるでソフィアを叱るように。
「早くキャンプに戻ってイーデンに会いたい?」
「ワンワン!」
相変わらず叱っているような感じだった。
「あ……。」
突然、数日前の事を思い出した。キャンプでもシードがこのように吠えたことがあったのだ。 イーデンがキャンプにかまどを設置すると言ってゴミを片づけている時だった。
「手が汚れちゃった。早く洗わなきゃ。」
イーデンはぼやきながらも掃除を止めなかった。その時、シードが叱るように吠えた。イーデンを追いかけながら。ソフィアはじっとシードを見た。
「あなたが急ぐ理由がわかったわ。」
あの時シードは、早く手を洗いたいイーデンを手伝おうと吠えたのだろう。今ソフィアの前で吠えている のもそれと同じだった。
「私がジョイのことで焦っているから、私のために早く行こうって、急かしているんだよね?」
「ワンワン!」
ソフィアはシードの頭をなでた。普通の犬より、はるかに賢いと認めざるを得なかった。
「わかったよ。シード。私も急ぐね。」
ソフィアはシードの歩く速度に合わせて速度を上げた。 赤茶色の雲が段々と増えてきた。 空を見るたびにソフィアは眉をひそめた。
「昔は昼がこんなに暗くなかったのに。」
環境汚染で作られたホコリの雲は世界の光を変えた。キャンプから少しでも離れると、辺り一面はオレンジ色に覆われる。ジョイの世代は、これが本物の世界の光だと思うだろう。ソフィアは幼い頃に見た青い空と澄んだ風景を覚えている。それさえ本物の世界ではなかった。ソフィアのおばあさんは自分が幼い時に見た世界についてよく話してくれた。
「私の幼い頃は、空が水槽の水よりも澄んでいたのよ、ソフィア。」ソフィアは目をぎゅっとつぶった。きれいな水より澄んでいる空なんて、想像できなかった。
「ワンワン!」
シードがソフィアの雑念を払った。前足で足を掻いている。
「もうすぐ埋立地に着くから、ゆっくり行っていいよ。」
たしなめる口調で言うと、シードはすぐ理解したみたいだった。
「ワン!」
埋立地に着くと、ソフィアはその場に立ち止まった。埋立をあきらめたゴミがところどころに山のように積み上げられていた。悪臭が混じった風がソフィアに吹きつけた。怖かった。こんな場所なら、何が起きてもおかしくはない。ソフィアはイーデンと一緒に来なかったことを後悔した。
「ダメ。しっかりしよう、ソフィア。」
ソフィアはすぐ平常心を取り戻した。キャンプではジョイとイーデンが一緒に遊んでいるはずだ。 ジョイが不安がるよりは自分が不安になるほうがよかった。
「シード。」
「ワン?」
「あの中に入ったら、リサイクルできる紙とプラスチック容器を探して。」
「ワン!ワン!」
シードは力強く吠え、舌を出してハァハァと息をした。
「本当に言ってる意味がわかるの?」
「ワンワン!」
シードと会話できて気持ちが少し楽になった。一緒に来てよかったと思った。 埋立地に入った瞬間、突然シードが体を低くした。
「シード?」
シードは地面に鼻を近づけてクンクン嗅ぎながらゆっくり歩いた。本当に何かを探しているように見えた。
「確かに賢いね。」
ソフィアはシードのお尻を見ながら笑った。
埋立地の区域に入ると、ゴミはかなり高くまで積み上げられていた。まるでグランドキャニオンの渓谷に入った気分だ。
「こんなに…… あっ!」
ホコリの風に飛ばされてきた箱がソフィアの前に転がり落ちた。ゴミの山の壮大さに感心していたソフィアは慌てて後ずさりした。
「気を付けないと。シードも気を付けて。」
「ワンワン!」
ソフィアを見るシードの表情は楽しそうだった。ソフィアの行動が気に入ったようだ。
「フン!」
急にシードが鼻声を出し、頭を上げた。
「シード?」
ピョン!シードが後ろ足で地面を蹴り、ウサギのように跳躍した。着地した場所はゴミの山のふもとだった。
「ワン! ワンワン!」
シードは鼻先で何かを何度も突いた。シードがいる所まで走っていったソフィアは目を何回もパチパチした。シードが鼻先で突いている物は紙の束だった。ぱっと見ただけでも使えそうな乾いた紙だ。
「本当に見つけたの?」
「ワンワン!」
ソフィアは信じられなくて、ただ笑った。恐怖を追い払うために命令しただけなのに、本当に命令通り紙を探したのだ。
「あなた、本当に人の言葉がわかるの?」
「ワン?」
シードが首を傾げた。ソフィアはそれ以上何も言わず、シードの頭をなでた。
「よくやったね、シード。」
その後もシードは必要な物をさらに何個か探し出した。 興味が湧いたソフィアは、シードに違う指示を出してみようか悩んだ。複雑な命令も分かりそうな気がした。
「あの、シード?」
「ワン?」
「三回前転して、お腹を見せたまま私にウィンクして。」
シードは答える代わりにソフィアを見つめた。眉間にしわを寄せていて、なんだか人の表情みたいだった。 まるで
「なんでそんなことしなくちゃいけないの?」
って聞いているような表情だ。
「冗談だよ、シード。」
ソフィアはシードをなでた。シードはようやく表情が和らいだ。この埋立地はもう埋められる場所がなくて閉鎖されてからかなり時間が経っている。それでも人々はここ にゴミを持ってきた。 溜まったゴミの悪臭は周りの町にも影響を及ぼした。一番近くにあった町は政府に抗議したが、何の措置もとられなかった。人々は町に同情しなかった。埋立地に無差別に捨てられたゴミの一部は、その町から排出されたものだったからだ。我慢できなかった人々が町を離れ、町がなくなったのは20年前の事だ。その後も周りの都市からここへゴミが排出された。そうやってゴミが捨てられた地域がいくつもあった。ソフィアは人々が作った結果を見ながらつぶやいた。
「自業自得ね。」
ソフィアは周りに迷惑をかける怠慢さが嫌いだった。少しだけ、もう少しだけ動いていたら、世界はこうならなかったはず。 嘆きながら歩いていたその時、ソフィアは眉をひそめた。「あれは……」
シードより先にプラスチックの箱を見つけた。
「あれは使えそう。」
ソフィアは微笑みながら箱に向かっていった。ドコッ。箱が少し動いた。同時にソフィアも足を止めた。
「なに?」
ソフィアが固まって箱を睨んでいたその時、逆さまになった箱の下から何かが這い出てきた。
「げっ!」
ソフィアは思わず声を上げて一歩後退した。ソフィアの手のひらよりも大きなネズミだった。
「……」
ソフィアは口を閉じたまま銅像のようにその場で凍り付いた。彼女は早くネズミが他の場所へ行ってくれることを願った。そういうソフィアを、シードが首をかしげて見つめていた。どうやらソフィアの行動が理解できないようだった。我慢できなかったシードが口を開けた。
「ワン?」
音を聞いたネズミがソフィアとシードの方を見た。
ソフィアは棒立ちしたままシードを見下ろし、小さな声で言った。
「じっとしてて、シード。静かに。」
「ワン?」
「音も立てないで。」
シードはまた首を傾げた。何かを感じ取ったのか、シードはネズミの方を向いた。ソフィアは不安になった。ネズミとシードが互いに向き合っていた。ソフィアはより小さな声で言った。
「ダメだよ、シード。じっとしてて。ネズミが自分で逃げるのを待って。」
ネズミという生物が怖いわけではなかった。ソフィアは研究員として働いていた頃に数多くの実験用ラットを扱ったことがある。 最も恐ろしい災害。 医学界の懸命な努力にも関わらず、21世紀以降に登場したウィルスの半分以上は解決できなかった。おまけに今は医学界も崩壊している。埋立地のような汚染がひどい地域のネズミと虫は絶 対に避けなければならなかった。問題はネズミの体についているであろう細菌だ。
「ウウウウ……」
シードは少しずつ牙を剥いた。ソフィアはさらに慌てた。
「下がって、シード。」
「ワン?」
シードがうなり声を止めてソフィアの方を振り向いた。ソフィアは自分が望んでいることが伝わるように、直接一歩下がった。
「ワン! ワンワン!」
シードが吠えていたので不安になった。シードはソフィアの意思を理解していないようだった。
シードの目は力強く光っていた。 ソフィアは慌てて言った。もう小声で話す状況でも なかった。
まるで「心配しないで、ソフィア。ネズミなら任せて!」と言ってるようだった。
「シード、ダメよ。あなたは何か誤解してる。お願いだから下がって。私みたいに、こう。」
また一歩下がると、シードは今度はソフィアとネズミの間に割り込んだ。まるでソフィアを守ろうとしているかのように。
「ワン!」
「下がってってば。」
「ワン!」
「ちょ、ちょっと!シード!」
もう遅かった。シードはネズミに向かって疾走した。走る後ろ姿からシードの心の声が聞こえてきた。キミは知らないと思うけど、ボクはネズミに勝てる! 今 からかっこいいところ見せてあげるから! ソフィアは慌てた。
「戻って、シード!」
「ワンワン!」
「ダメだって! ネズミに噛み付いちゃダメ! ネズミに触れたら一生ジョイに近づかせないから!」
ズザザザーッ!走っていたスポーツカーが急ブレーキを踏むかのよ うに、シードは4本の足を使ってなんとか止まった。シードの1m前にネズミがいた。驚くことにネズミは逃げなかった。むしろ立ち向かおうとしているように見える。
シードはネズミを前にして、ソフィアのほうを向いた。
「クゥン〜」
表情がむすっとしていた。シードの目が言っていた。ジョイをかけなきゃダ メ?ボクが勝つのに。もちろん、ソフィアはシードの勇敢さを褒める気は なかった。
「早くこっちへ来なさい、シード! 問題は勝ち負けじゃなくて、ネズミの体にたくさんついている細菌なの。」
シードはしょぼんとして振り返った。そしてとぼとぽとソフィアに向かって歩いた。
「ふう~」
ソフィアはほっとした。ネズミに噛みついて病気にでもなったら、イーデンに合わせる顔がない。しかし安堵したのもつかの間だった。ソフィアが予 想できなかった事が起こったのだ。
「チュー!」
今度はネズミがシードのほうへ走り始めた。
「シシシ、シード!もっと速く!早く逃げて!」
ソフィアは先に体の向きを変えて走って叫んだ。
「ワン?」
驚いたシードはソフィアを追って走った。 走ってる途中に後ろを向いたシードは、ネズミが追ってきていることに気づいた。 ソフィアを追って逃げることは止めなかったが、シードの口元はびくびくしていた。
「ウウウウウ…」
ネズミに追われるのが悔しいようだ。
「なんで追ってくるの?」
ソフィアは泣きたかった。人と犬を怖がらずに攻撃するネズミなんて、見たことがない。 怖くて逃げるのではなく、汚いから逃げるのだとい うことをネズミは知らないようだった。シードも泣きたそうだった。目が垂れていた。走りながらソフィアが叫んだ。
「ごめん、シード! 今は逃げ続けなきゃダメ!」
「クゥン〜」
シードは落ち込んだ声を出しながら、速度を上げてソフィアと並んで走った。走る途中でシードは何度もソフィアのほうを見た。 それがどういう意味か、ソフィアはすぐに理解した。シードの考えは見え透いていた。恨んでいるのだろう。今からでも遅くない。ボクはあいつに勝てる! 一言だけでいいんだ。振り返って攻撃してって言って!そんな感じで、シードはソフィアを見ていた。
「えいっ!」
ソフィアは走りながら紙束を後ろに投げた。紙束に当たりそうになったネズミがびくっとして止まった。
「いつまで追ってくるの?」
ソフィアは走りながら叫んだ。どこまで追ってくるか確認するために振り向き、速度を下げた。ネズミはそれ以上は追って来ず、ソフィアとシードを見ているだけだった。
「ふう~」
ソフィアはやっと足を止めてホッとした。シードも止まって、ソフィアを守るようにネズミのほうを向いた。
ソフィアはネズミとシードを交互に見た。彼女は思った。やっぱり犬は犬に過ぎないと。 いくら賢くても目に見えない脅威まで理解できる犬はいないだろう。 ソフィアは内心イーデンと一緒に来なくてよかったと思った。賢いのは認めるが、ジョイを任せられるほどではなかった。
「ワン! ワンワンワン!」
シードがネズミに向かって吠えた。ネズミはびくびくするだけで、襲い掛かることはなかった。 ソフィアはもう一つの紙束を投げ、続けてプラスチック容器も投げた。 ネズミに当てるつもりはなかった。むしろ当たったら困る。細菌が移るかもしれないから。脅威を感じたネズミは、近くのゴミ山に逃げた。 ネズミが錆びた鉄くずの間へ消えていくのを見て、ソフィアはため息をついてへたり込んだ。
「クゥン〜」
シードはソフィアに近づいた。ソフィアはシードをなでた。
「よくやったね、シード。さっきも言ったけど、ネズミは細菌が多いから噛み付いちゃダメだよ。」
「ワン?」
ソフィアは思わず笑ってしまった。理解できない時に首を傾げるシードがかわいかった。
「ネズミがまた出てくるかもしれないから、他の所へ行こう。」
ソフィアは方向を変えた。 ゴミの山は所々にあったので、その隙間に道が多かった。
雑に積み上げられた山の隙間の道は、まるで迷路みたいだった。 途中で道が塞がっていて、ゴミの山を這いあがらなければならない状況もあった。そういう時はソフィアは来た道を戻った。 彼女はいつ崩れるかわからないゴミの山を登る冒険はしたくなかった。探索は順調だったが、時々ソフィアの気に障る物が あった。
「それは捨てなさい、シード。」
ソフィアはシードがくわえてきたチラシを見て言った。
「フン!」
シードはすぐに理解して捨てた。それだけでは気が済まなかったのか、後ろ足で何度か蹴って破いていた。チラシはきれいだった。ゴミとして捨てられたというより、最近誰かが撒いたようだ。 探索中、同じチラシを何度も発見した。きれいなのでリサイクルして使うにはよかったが、 ソフィアは持ち帰りたくなかった。理由はチラシの内容が気に入らなかったからだ。チラシは「不死身の新人類」という大きなタイトル に、目障りな内容がたくさん書かれていた。 汚染された環境に合わせて人間の体質を変えようという内容だ。ソフィアはぶつぶつとぼやいた。
「世の中にはとんだおバカさんたちがいたものね。」
世界が混乱する時、必ず現れるのがこういった部類のものだ。他人をだまして利益を得ようとする詐欺師たち。 チラシは、体質を変えて永遠の命を生きたい人を募集するという内容だった。
「あんたらなんか、略奪者と同じクズよ。」
ソフィアはシードが半分破ったチラシを踏みつけて歩いた。 こういうロクでもない内容にだまされる人もかなりいるだろう。 一番気に入らなかったのは、
「住み込み、食事付 き」
という文句だった。今のような劣悪な世界で、何の理由もなく食事と寝 床を提供する者は珍しい。だからソフィアは、イーデンが特別で、ありがたい 存在だった。 ソフィアは神経質に独り言を言った。
「体質を変えてやると言って人を募集する理由は明白だわ。」
検証されていない薬品で臨床実験を行う集団だろう。神でない以上、「永遠の命」を目標とする彼らが成功する可能性はない。きっと被害者がかなり出ているだろう。ソフィアは今まで集めたリサイクル用品を確認した。かなり重たかったので、そろそろ目標値に達するだろう。
「もう少しだけ探して帰ろうね、シード。」
「ワン!」
シードはうれしそうに吠えた。 ネズミの一件もあり、シードは頼もしいわけではな かったが、ソフィアはシードと一緒にいるのが好きだった。大切な犬と散歩している気分だった。そして楽しい気分は常に人を油断させる。ソフィアは大事な事を忘れていた。
「ウウッ!」
突然シードが低く吠えた。
「どうしたの、シード?」
ソフィアはシードが見ている方向へ視線を移した。反射的に表情が固まった
「私がバカだった…」
埋立地にあるチラシにしてはきれいすぎることについて、深く考えなかったのが問題だった。遠くにあるゴミの山の上に、誰かがいた。体の大きな男だった。男は脇に分厚いチラシの束を 抱えている。ソフィアはそっと後ずさりした。運悪くソフィアが立っている場所は、左右がゴミの山で塞がっている一直線の道だった。 今から身を隠せそうな場所まで行くには、1分以上 かかる。
「シード、静かについてきて。」
まだ男はソフィアに気づいていない。ソフィアは音を立てずにできるだけ速く歩いた。ゴミ山の角に着くまで男が自分に気づかないよう祈 りながら。バコッ踏んだ空のペットボトルのへこむ音が、雷の音のように大きく聞こえた。男に気を取られて、足元をちゃんと見なかったのが間違いだった。ソフィアは緊張して男を確認した。男はソフィアのほうを向いていた。見つかったに違いない。
「ど、どうしよう?」
ソフィアは走らなかった。逃げるのは相手を刺激すソフィアを目的とした動きなのは確かだった。ソフィアは小さな声で言った。る行為になるかもしれないからだ。男はゴミの山からゆっくりと下りてきた。
「シード。」
「ワン?」
ソフィアがシードを見上げた。かわいく首を傾げている。
「走る準備して。」
ソフィアは男に背を向け、今まで来た道のほうを向いた。そして走った。
「待て!」後ろから男が叫んだ。
「ドドド」と、ゴミの山の一 部が崩れる音も聞こえてきた。
「走り続けて、シード!」
ソフィアは抱いていた物をすべて投げ捨てた。今は命のほうが大事だった。
「待てよ!」後ろから男が脅すような声で叫んだ。 ソフィアは男の目的が何なのか気づいていた。チラシを読んだ時、頭の中で仮説を立てた。こんな世界で「住み込み、食事付き」を簡単に信じる人は多くない。存在したとしても少数だろう。そういう事を信じる人が長生きするはずがないから。この怪しい団体は臨床実験に使う人間が足りないに違いない。足りない人を補充する方法はいくつかある。そのうちの一つが、拉致することだ。
「おい! 俺は危ない人じゃない。」
後ろから男が叫んだ。ソフィアは鼻で笑った。心配なのは、男の声が少しずつ近づいていることだ。ソフィアは走っている途中で後ろを振り返った。思ったよりも男が接近していた。驚いたソフィアは 失敗を犯してしまう。
「あっ!」ソフィアは足がもつれて転んだ。
ソフィアの近くで走っていたシードも急いで止まった。
「ワン! ワンワン!」シードが促した。
ソフィアは急いで起き上がろうとしたが、捕まる恐怖が体を支配していた。 全身が震えて、動くことができなかった。
「うう…」ソフィアは後悔した。
シードと一緒に歩くのが楽しいあまり、埋立地の奥深くまで入ってしまったことが問題だった。
「は、早く… 起きな… きゃ。」
ソフィアは歯を食いしばった。 過去の悪夢がよみがえった。略奪者に出くわした日、あの日もソフィアは今のように動くことができなかった。略奪者に捕まって捕虜になるまで。 今はあの時よりも深刻な状況かもしれなかった。 あの男に捕まって連れて行かれれば、人体実験の実験台にされるかもしれない。「不死身の人間」を作ってやると言って、恐ろしいことをするだろう。そんな考えがソフィアの脳裏によぎった。
「動くな。手こずらせるなよ。」
男は近づきながら言った。ソフィアは半分ほど固まった舌になんとか力を入れて命令した。
「シ、シ、シ、シード。に、逃げて…」
ソフィアは、命令しながら気づいた。自分は思ったよりもシードのことが好きだという事実を。 命が危ない状況でも、シードのことを心配していた。
「ウウウウウ…」
それは、ソフィアだけではなかった。シードもソフィアの前で顔をしかめていた。 ネズミを相手にした時とは比較にならないほど、シ ードは怖い表情をしていた。
「ウウウ… ワン!」
男はシードの勢いにぴくっとして近づくのを止めた。
「ハッ!」
鼻で笑うような声をもらした。シードの体格を甘く見ているのは明らかだった。
「主を守るってか?」
「シード、逃げて。早く!」
ソフィアはシードに向かって手を伸ばした。 堂々と男に立ち向かうシードのおかげか、声はこれ 以上震えなかった。ソフィアの指先がシードの尻尾にふれた時だった。シードが激しく吠え出した。
「ウウウ… ワン! ワンワンワンワン! ウウ… ワンワン!」
男はシードの手荒い警告を少しも恐れなかった。むしろ近づく歩みが速まった。その瞬間、シードが地面を蹴って男に向かって走り 出した。ソフィアはびくっと驚いた。
「シード! やめなさい。戻ってきて!」
ネズミを相手にした時とは違って、シードはソフィアの命令を聞かなかった。
「ワン! ワン!ワン!」
シードが荒々しく走ってきたせいか、男は足を止めた。いや、むしろ後ろに下がった。
「ワンワンワンワン!」
シードは男の前で休む間もなく吠えた。
「このクソ犬が!」
男はシードを蹴り飛ばそうと足を伸ばした。
「ワン!」
シードのほうが早かった。ジャンプするように後ろに下がったシードは、再び 前に突進し、男が伸ばした足のズボンの裾に噛みついた。
「うわっ!放せ!」
男は足を振り回した。シードはまるでズボンの一部にでもなったかのように一緒に振り回されたが、離れなかった。
「放せって!」
男は拳を振り上げた。シードの頭を狙って飛んでいく拳を見た瞬間、ソフィアは悲鳴をあげ、目をぎゅっと閉じた。今回もシードが早かった。シードは拳があたる前にズボンを放して、素早く後ろに下がった。おかげで男は宙に舞った。
「くそっ!」
男の顔が赤くなった。シードは一定の距離をおいて、
「ウウウウウ…」
うなり声を上げた。
ソフィアは目を開けてゆっくり起き上がった。固まっていた体がほぐれた。 シードが時間を稼いでくれたからなのか、勇敢さを 見せてくれたからなのかは、わからなかった。ソフィアは男を睨みつけながら叫んだ。
「帰ってください! どうか私たちに害を与えないでください!」
男の注意はソフィアに向けられた。
「害を与えようとしているわけではない。」
男はソフィアとシードを交互に見た。彼も緊張して いるのか、つばを飲み込んだ。 ソフィアは冷たく言い放った。
「少なくても今は害を与えようとしているように見えますよ。」
「俺は助けようとしているんだ。あんたは俺に感謝することになると思うが。」
「このまま帰るなら、感謝しますよ。」
男は首を振った。必ずソフィアを連れて行くという意志が感じられた。
「ひょっとして、俺が撒いたチラシは見たか?」
「見ましたよ。話にならない内容でした。」
「あんた名前は何だ?」
「教えたくありません。」
ソフィアの返事は冷たかった。男から感じられる雰囲気は馴染みのないものではなかった。何度か見たことのある狂信者の口調と表情だった。
男は言った。「いいか、よく聞け。『進化』が何か知っている か?」
「少なくともあなたよりは知っているわ。」
男の目が大きくなった。うまく進められる思っているようだった。
「それなら話は早い。あんたは運がいい。」
「ウウウウウ…」
シードが話の途中で入ってきた。男が一歩近づいたからだ。 男は二つの手を広げて、戦う意思がないことをシー ドに見せた。そして、また聞いた。
「このクソみたいな環境はつらくないか? 地球の環境を変えるのはもう不可能だ。」
「わかっているわ。」
「だからといって、あきらめることはできないだろ?環境を変えられないのなら、俺達が変わらなければいけない。今の環境が天国のように感じられるようにな。」
男の言葉にソフィアはあきれた。
「それで説得してるつもり?進化について本当に知っているの?」
「もちろん、わかってる。生命体の進化には、時間がかかる。何世代にも渡ってな。」
「じゃあ…」
男はソフィアが話す隙を与えなかった。
「しかし、俺たちはできる。方法を見つけたんだ。人間はあんたが思っている以上にすごいもんだ。」
ソフィアは長いため息をついた。話の通じる相手ではなかった。むしろこうして会話で時間を稼ぎながら、逃げる計画を立てるのが正解だと判断した。
「知ってるか?めちゃくちゃになった環境は、むしろ俺たち人間にとって祝福すべきものだ。この世界は地獄じゃなくて、天国だってな。」
「ウウウウウ…」
近づこうとしていた男がまた元の位置に戻った。シードは二人の会話には興味がなかった。ただ男の位置だけに集中している。 男は近づくことをあきらめ、再びソフィアを説得した。
「この環境に適応した人間になれば、ものすごいポーナスが得られる。何かわかるか?」
ソフィアは冷たく返事した。
「永遠の命でしょ?」
男は手を叩いた。「すぐに理解したようだな。そうだ。永遠の命だ。」
「どちらにしろ、私は永遠の命にも、進化にも興味がないわ。私が興味あることは、あなたが帰ることだけ。」
男の手が止まった。いつの間にか男の表情はひどく歪んでいた。
「言葉で説得はできないようだな。でも直接経験すれば考えが変わるだろう。」
「ウウウ…… ワン!」
シードが強く吠えた。男が近づいたからだ。シードの警告も気にしないで、男はもっと速く近づ いてきた。シードはためらわなかった。
「ワン! ワンワンワン!」
「うわっ!」シードが噛みついた。ズボンを噛むだけでなく、本 当にすねを噛んだのだ。
「許さんぞ。このクソ犬が!」
男はシードの首根っこをつかもうとした。今回もシードは男の手を避けて後退した。
「ウウウウ…」
シードは男に荒々しい警告を送り、ソフィアをちらっと振り向いた。 ソフィアは、助けを求めているものと理解した。
「ワン! ワンワンワン!」
一歩踏み出したソフィアがびくっとして立ち止まった。シードがソフィアに向かって激しく吠えたからだ。
「シード、どうしたの?」
「ワンワンワンワン!」
ソフィアは思わず後ろに一歩後退した。そして驚くべき光景を目にした。 シードがソフィアに向かって、首を縦にふったの だ。
「私に…逃げろ…って?」
「ワン!」シードは再び男のほうを見た。シードは、これまで聞いたこともないほど激しく吠えていた。男もシードのように険しい表情だった。彼は近くの ゴミ山から鉄パイプを見つけて、手に取った。
「かかってこい。このクソ犬め。今まで五匹の野良犬をしとめてきた。お前なんか…」
「ウウウウ…」
ソフィアはシードを助けて戦わないといけないと思った。しかし、きびすを返して逃げた。そうしなければいけないと思った。 今の状況で一番いい選択は、男を避けて逃げることだった。信じがたいが、なぜかその選択はシードが計画したように感じた。
「ワンワン!」
ソフィアは走りながらシードを振り返った。そして徐々に確信した。 シードの動きを見てわかった。シードはソフィアのために逃げなかったのだ。 ソフィアが逃げられるように時間を稼いでから逃げるつもりだったのは明らかだった。ソフィアは走りながらつぶやいた。
「シードを見くびっていたわ。あんなに頭がいいなんて。」
男はパイプを振り回していた。そうするたびにシードは距離を広げた。 逃げるわけではなかった。男のパイプがあたりそうな距離で挑発するように吠える。
「うわああああ!」
男は怒りに燃えていた。男はソフィアが逃げるのを見た時、すぐにシードを処理して追いかけるつもりだった。しかし、今は違った。もうソフィアには興味がなか った。この憎たらしい犬に全神経を集中させていた。
「叩きつけてやる!」
男が力いっぱいパイプを振り回した瞬間だった。ピョン!シードはジャンプした。ソフィアのほうでも、男のほうでもない、突拍子もない方向だった。
「ん?」男はぼうっとシード見た。
シードは山のように積まれたゴミ山を登っていた。ソフィアもぼうっとしていた。もう十分に距離をとったので、そろそろシードが自分を追ってくる頃だと思っていた。 二人とも予想していなかったことだった。シードの計画は全く違った。
「そこに行けば、来れないとでも思ったか?」
男がゴミ山を這い上がろうとした瞬間だった。ボコ!男の顔に濡れたビニール袋が飛んできた。
「これは……」
袋を避けることに気を使っていた男が目を丸くした。ボコボコッ!シードがゴミ山の頂上から、後ろ足で一生懸命ゴミを蹴っていた。
「おい、やめろ!」男の表情が真っ青になった。
さびたバケツが落ちた。頭に飛んできたバケツを腰を曲げて何とか避けた。
「やめろって!」
ゴミ山に危なっかしくかかっていたエアコンがシードの後ろ足にあたって揺れた。エアコンが転がり始めた。ガチャッ!ドコッ! ゴロゴロ!
「うわっ!」男は急いで山の下に飛び降りた。
そしてエアコンを見た。 転がってくるエアコンは、右に落ちるか左に落ちるかわからなかった。 ゴミ山のあちこちが凸凹しているので、転がる方向は一定ではなかった。
「うわっ!」ドン!男はかろうじてエアコンを避けた。
ソフィアは逃げることも忘れて、その光景をぼうっと眺めていた。ガタ。バン!シードの後ろ足は止まらなかった。エアコンのあった場所が空くと、その場所にブラウン管が割れたテレビが転がってきた。揺れていたテレビの角が、シードの後ろ足に正確に当たった。転がるテレビは冷蔵庫の角にぶつかった。そうでな くても不安定な状態だった冷蔵庫が少しずつ傾き始めた。
「ま、まさか!」
男はそれ以上ためらわずに振り返った。テレビと冷蔵庫が同時に落ちてくる。男が逃げる前に冷蔵庫が頭の上に飛んできた。
「うわああああ!」
男は汚い地面に向かってスライディングした。バン!冷蔵庫は地面に落ちた後も、反対側のゴミ山にぶつかるまで転がった。
「絶対許さな…」
床にうつ伏せになった男の顔が険しくなった時だった。顔の前に何かがいた。大きなネズミだった。
「あ、あっちに行け!」
男はうつぶせになったまま、力いっぱい腕を振った。埋め立て地のネズミが危険であることは男もよく知っていた。腕を振り回したのが間違いだった。ネズミはそれを 攻撃の合図だととらえた。
「うわああああ!」
ネズミは男の腕を避けると、頬に噛みついた。男は手でネズミをつかんで力強く投げた。
「うう…」立ち上がった男はシードを見上げた。
シードはゴミ山の上から男をにらんでいるところだった。男の視線はソフィアのほうに戻った。ソフィアはかなり離れたところにいた。彼女の顔は 男ではなく、シードのほうを向いたままだった。
「クソッ。」
男はソフィアもシードもあきらめた。落ちたチラシの束を拾い、とぼとぼと歩き出した。見てろよ! 後悔させてやる!男の怒りのこもった叫びが、ゴミの渓谷の間に鳴り響いた。
シードは男の姿が見えなくなるまでゴミ山の上から監視するように見守った。
「ワン!」
男が消えると、シードはようやく降りてきた。楽しそうにぴょんぴょん跳ねる様子はまるでシカのようだった。
「シード、こっち来て!」
ソフィアは両手を力いっぱい伸ばした。シードのところへ駆けつけたかったが、足は力が抜けて動かなかった。シードは舌を出し、荒い息をしながら走ってきた。1mほどのところまで来て、急にシードが止まった。
「シード?」
ソフィアはシードをぼうっと見た。なんで止まったのかわからなかった。 しかし、すぐにシードが何を考えているのかわかった。シードはおすわりの姿勢のまま、首を上げていた。首を高く上げていたが、赤褐色の空を見ているわけではなかった。シードはちらちらとソフィアを見た。
「ブッ!」
ソフィアは口を閉じて笑いをこらえようと努力した。
「よくやったね、シード。最高だよ。」
立派なことを成し遂げたと自慢したかったに違いなかった。緊張が解けたソフィアは、シードのそばに近寄った。頭をなでると、ようやくシードは笑ってソフィアの手をなめた。
ソフィアはシードを力いっぱい抱きしめた。頬をなめてしっぽを振る小さな犬が、とても頼もしかった。 ソフィアはシードの首をかかえたまま言った。
「あなた本当に賢いね!」
先ほど投げ捨てた物をまた拾う間、ソフィアは何度かきょろきょろ見回した。男がまだ近くで見ているかもしれなかったが、男は帰った可能性が高かった。ネズミに噛まれたから、早く消毒する必要があった。しかし、また現れたとしても心配はなかった。問題が生じても、シードがまた解決してくれる気がした。
「ワン!ワン!」
ウサギのように跳ねながら前を歩くシードの後ろ姿を見て、ソフィアは思った。イーデンの言うとおり、シードにジョイを任せてもよさそうだ。
「シード、待って!」
「ワン! ワン?」
シードが突然びくっとした。ソフィアはシードの視 線を追い、肩をすくめた。 さっき男を噛んだネズミが見えた。
「ワン!」
止める間もなく、シードはネズミに向かって走り出した。
「きゃあ! シード、止まって! 絶対ダメ! さっき言ったでしょ? ジョイに近づかせないから!」
ザッ!今回もシードは止まった。ソフィアは走りながら叫んだ。
「ついてきて!逃げなきゃ!」
「クゥン〜」
シードは仕方なくソフィアを追いかけた。並んで走りながら、シードはソフィアをチラチラ見た。ソフィアはシードが何を言いたいのか知っていた。まだボクを信じられないの?さっきの男よりこのネズミのほうが簡単なのに!
「そうやって見ないで! 走り続けて! ブッ!アハハ!」
怖い顔をしていたソフィアは急に笑い出した。なぜ笑いが出るのかわからなかったが、不思議と気分がよかった。
「ワン!ワン!」
ソフィアが笑ったからなのか、シードの走りが軽快になった。耳をぴんと立てて愉快にしっぽを振っている。 ネズミに追われているのではなく、走って遊んでいると思っているようだった。
「ワン!」
ネズミが追ってこなくなっても、二人はゴミの埋立地から出るまで楽しく走り続けた。
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